公開から1週間になるので、そろそろ書いておこうと思います。
東野圭吾さんの原作は一気に読めました。
東野さんの本っていつも読むのが止まらなくなるんですよね。
原作と映画は大きく変わってる部分がありまして、
たぶん原作を先に読んだ方は、どうしてそれを無くしたのかと
不満に思われる気持ちもわかりましたし、それとは逆に
原作読んで初めて映画版の良さに気づくこともあるわけで
そういうところを書いてみたいと思います。

以下、ネタバレですので映画未見の方は読まないで下さい
映画のほうについては記憶が不確実ですので
間違いがあれば教えて下さいね。









★原作では神楽が自分を犯人と確定するデータを見たのは
料亭で食事中にスマホ(携帯?)に送られてきたものから。

これは圧倒的に映画版での大画面に神楽が映し出されて
うろたえる表情をする演出のほうが素晴らしかったですね。

★神楽の父(陶芸家)が自殺した動機
映画では機械がコピーした贋作(偽物)が出回るようになり
龍平が贋作と知らずに「お父さんの作った中でこれが一番好きだよ」
って言った事にショックを受けて自殺したようにとれ、
リュウが自分に責任を感じて精神的におかしくなったと捉えられた。

でも原作のほうは自分の作品は絶対に見分けられるという
確信を持っていた父がTV番組に出演し、
全部偽物なのに自分が作ったものだと言い切って、
見分けられなかったことに失望して帰宅後に自殺。

映画のほうがより龍平のショックと悲しみが強調されるような気がする。

★リュウが描いている絵が“父の手”であると気づく部分の違い
これは映画ではあんまり重要に扱われてなかったと思うんですよね。
(私がそう思っただけかも知れませんが)
原作では逃亡中に山奥で暮らしてる、昔ながらの生活を
している人達と出会って、そこで陶芸を見ているうちに神楽が
「思いは必ず手に伝わる。その手が土を形作る」というサソリの言葉に
リュウの描いている絵は、父の手だって気づきます。
(映画では夢の中でリュウが神楽にあっさり伝えてますが)
父の死で神楽は人間の心なんて脆いもので、
父の作品でさえデータの集積に過ぎなかった、
データこそが全てだと確信してしまったのですが、
リュウは父の手にこそ価値がある、その形だけを真似たとしても
何の意味もないと、それを神楽に伝えようと絵を描きつづけてた。
そこに気づいた神楽が父の偉大さを再確認して
あの時に父を救えたのは自分しかいなかったのにと後悔し、
コンピューターとの戦いに敗れた事に大した意味などないと
父に教えられたはずなのに、自分は間違っていたと気づき
涙があふれる・・・ここは原作読んでて心にしみた部分でした。

★原作ではスズランという女の子が重要人物
リュウが描いていた女の子のモデルでもあり、
いつもアトリエでリュウと一緒にいたという謎の少女スズランが
神楽が逃亡する時についてきます。
蓼科兄弟の別荘にいる間に、彼女は神楽を教会に連れて行き
リュウといつか結婚式を挙げたいねって話してた、
リュウの代わりに指輪の交換をしてって草で編んだ指輪で
結婚式の真似事をします。
ここがとってもロマンチックでちょっと感動。
だけど後でカメラにも映っていない、彼女は幻覚だったと分かる。
そしてスズランはリュウの頭の中で作りだした、
蓼科早樹だった。(現実の早樹は醜い容姿だったが、
スズランは細身の少女)
最後にリュウになってスズランを描き、リュウとスズランが
この世界から永遠に消えるところや、原作の最後が
神楽が陶芸をしてる部屋の壁に絵が飾られていて
「絵の中のスズランはウェディングドレス姿で微笑んでいた」
という文章で終わっていて、
もうほんとに胸にぐっときて泣きそうになるので
たぶん原作ファンはこのスズランが抹消されていたことが
一番の不満なんじゃないでしょうか。
映画では現実の蓼科早樹本人とリュウの物語になってて
原作未読の者にとっては、それで充分良かったのですが。

★原作では水上が男性であり、殺人の目的がまるで違う
原作では連続殺人は「電気トリップ」という、
刺激的な快楽を味わえる装置で行われており、
殺人は水上教授の作った装置の実験台だった。
水上は人間の精神を操ることは、権力を得ることに繋がる、
世界を変えられるものを生み出したかったと。
人の心を操れる方法を試してみたかったという科学者としての
本能から実験を行った。
蓼科兄弟や白鳥殺害についてはプラチナデータの真相に
近づきすぎたからという点で映画と同じ。

映画では水上を女性にしたうえで、恐ろしい企みの内容が
まるで違うものになってましたよね。
世の中には悪い人達が溢れていて、
それは持って生まれた遺伝子が悪いから。
遺伝子的に劣っている者はクズである、
クズはクズのままで生きる資格がない、
よって優れた者の遺伝子を取り出して世界をそういう人で満たす、
神がアダムの肋骨からイブを作ったのと同じように
肋骨を取り出して、その遺伝子から優秀な命を作り出す、
早樹とリュウの遺伝子からも命がすでに芽生えている画像を
見せられて、遺伝子さえあれば肉体は必要ない、
だから知ってしまったリュウには死んでもらうと。
それまで水上は早樹とリュウには母親のような優しい目で
見守ってくれるお母さんのような存在だったのにっていうのが
すごく悲しさがありました。
「最後にお母さんって呼んでくれない?」と
リュウと抱き合うシーンが涙々で。

それに比べて原作の水上との対峙シーンは浅間も一緒で
浅間は注射を打たれ、神楽には危険な装置の電極がつけられ
冷酷な水上の残酷さだけがあって、悲しさとかないし。
そこから水上を殺すまでの逆転劇とかは
それはそれで面白かったですが、でも私は映画のほうが
悲しみや考えさせられるものがあって好きです。

そしてラストではリュウは消えて
神楽がコンピューターに囲まれた生活から抜け出して、
陶芸をやっているところで終わっています。
それもまた良かったなって思えました。

でも映画では交代人格が神楽ってことになってて
神楽は水上がプラチナデータを作るうえで役に立つと考えた、
ただのツールに過ぎなかったと。
結果、神楽のほうが消えてリュウになるってことですよね?
どちらにしろコンピューターに囲まれた生活からは抜け出して
芸術に没頭するという点では同じ事なのですが。

映画前半の神楽逃亡のアクションシーンとか
中盤のスタジアムのシーンとかは映画オリジナルな内容です。
というわけで原作と映画、一長一短で、
その面白さの違いを味わっていただけたらなと思います。
たぶん原作を先に読んでた人よりも、原作未読で観た人のほうが
素直に映画を楽しめた気がしますね。

★原作本
Amazon→プラチナデータ (幻冬舎文庫)



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